ウォルト・ディズニー・アーカイブスのディレクター、レベッカ・クラインは、次のように述べています。「ウォルト・ディズニー・カンパニーが正式に発足したのは、1923年10月16日、ウォルト・ディズニーがハリウッドにある叔父の自宅で、ごく簡単な契約書に署名したことに始まります。この契約によってウォルトと兄ロイ・ディズニーは、サイレントカートゥーン『アリス・コメディ』シリーズを制作・配給できるようになり、この契約こそが100年にわたり世界中を魅了してきたディズニーの魔法の、開発と制作への扉を開きました。」

ウォルトと兄ロイ・ディズニーは、1923年10月16日にウォルト・ディズニー・カンパニーを正式に発足しました。
その日、ウォルト・ディズニーはニューヨークのカートゥーン配給業者、マーガレット・ウィンクラーと契約しました。1924年から1927年にかけて制作され『アリス・コメディ』として知られる革新的なサイレントカートゥーンは、実写の少女がカートゥーンの不思議な世界で冒険を繰り広げるという内容で、ウォルトとロイが大成功を収め、今日のディズニー社の礎となった作品でした。
4ページ足らずの契約は、当時ウォルトが住んでいたロサンゼルスのキングスウェル通り4406番地で交わされました。契約書には、ウォルト・ディズニー、マーガレット・ウィンクラー、そしてやがて彼女の夫となり、のちにウォルトの制作した『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』シリーズの配給業者となったチャールズ・ミンツ、そして証人として立ち会った、ウォルトの叔父ロバートの署名が記されています。
続けてクライン (ウォルト・ディズニー・アーカイブスのディレクター) は、次のように述べています。「ウォルトは前向きな青年でしたが、カンザスシティ時代、彼自身が“大失敗”と呼ぶほどの辛い経験をしていました。アニメーションスタジオを2つ設立し、いずれも失敗に終わっていたウォルトは、カンザスシティを離れ、映画の世界で新たなキャリアを築くため、ハリウッドに行くことを決意したのです。」

『アリス・コメディ』は、ウォルトとロイが大成功を収め、今日のディズニー社の礎となった作品でした。
監督や俳優の仕事を見つけることができなかったウォルトは、「カンザスシティで作ったパイロット作品を売り歩きました。ウォルトは、銀行で安定した職に就いていた兄のロイを“チャンスをつかもう”、と説得すると、2人でまたしても新しいアニメーションスタジオを設立することにしたのです。」とクラインは付け加えています。「ディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオは、やがて今日のウォルト・ディズニー・カンパニーとなりますが、ついにリスクが報われたのです。」
そして100年後、ディズニーは世界中でエンターテイメントと喜びを届ける巨大企業へと発展し、兄弟がとったリスクは今もなお、実を結び続けています。ディズニーは過去100年にわたり、何百万人もの人々を楽しませ、知的好奇心を満たし、ひらめきと感動を届けてきましたが、そのすべては、一軒の質素な家で交わされた短い契約から始まったのです。
最後にクラインは次のように締めくくっています。「『アリス・コメディ』の契約書は、ウォルト・ディズニー・アーカイブスのコレクションの中で、間違いなく最も重要な文書です。100年経ち、創設者たちが世を去ってから長い年月を経た今でも、私たちはウォルト・ディズニー・カンパニーの成り立ちを知るための、唯一無二の手がかりを持ち合わせているのです。」

1923年10月16日に署名された契約書の1ページ目

ウォルト・ディズニーの署名がある、契約書の最後のページ
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